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アトリエわじま絵画塾

 ☆函館市桔梗教室(函館市桔梗町,函館蔦谷書店から徒歩2分) ☆大沼高原教室(森町大沼高原(函館蔦谷書店から車で約25分,高速道路・大沼インターチェンジより2分、新幹線駅から車で12分)

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<172-F200号制作過程;題名「ブレスト」>
人体と腕、手の位置関係・バランスはある程度、感に頼って大雑把に表現していく・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 第3の主題を述べる前に確認したい。フォーマリズムは、抽象美術の純粋性を徹底的に突き詰めた結果、還元主義に陥り、脳の局在としての視覚野の色や形の源泉、V1野やMT野やMIT野に辿り着いた(もちろんこれまで通り、蓋然性の高い仮説が浮遊する脳科学を前提としてであるが)。言い換えれば、あらゆる形をそぎ落とし、形の最小限度まで突き詰めようとした一連の行為はミニマリズム、すなわちミニマルアートを生んだが、それは表現の結果と同時にその行為を意識的に感じること、つまり空間概念と時間概念が入り交じったようなものではなかったか。ちょうどお座りが出来るようになった乳児が、白い紙面上にマジックを握った手を振りかざし、腕の動き(行為)と同時に黒い点(形)が生まれてくる(通称、テンテン画)ことを喜々として喜ぶことに似ている。もちろん乳児は無意識であるが‥。人間はそれを意識化し表現の起点に辿り着いたのである。
 さてこの美術論の第3の主題である。アメリカ現代美術のもう一人の擁護者、ハロルド・ローゼンバーグは、二次元平面画面ではなく、制作の行為、即ち運動系そのものを問題とする。プロセスアート、パフォーマンス、或いはヴィデオアートの出現は時間の推移を伴うものである。本来時間概念と空間概念は合うはずがないのだが、そこでは作品の持つ運動的側面が強調される。さらにコンセプチュアルアートの多様性‥。これらは視覚主義、形態主義の美術にとって無縁の概念である。この美術論の拠り所ともなる神経心理学的・唯脳論的文脈では、聴覚-運動系である時間性と視覚系の空間性はもともと相容れない関係であり、脳の中で無理やり連合したのであると解釈する。その視点からすると、視覚主義のアートに対してのコンセプチュアルアートという語自体が本来語義矛盾ではないのか。コンセプチュアル(概念上)とは、着想、意図、行為‥という意味である。それは系列的展開の前頭葉-運動系に関わるものであり、アート(視覚アート)とは云うまでもなく同時的総合の認識系に関わるものだからである。水と油を混ぜようというのだから、これは脳独自の働きでなくて何なのだ。脳から云わせると、これはひとつの“自明性への挑戦”である。固定化してしまった脳の機能局在への叱咤激励である。一瞬は混ざるだろう。しかし、また元に戻る。脳は混沌よりも規律を好む。芸術の歴史はそれを証明している。
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<171-F200号制作過程;題名「ブレスト」>
ヴァイオリンはそれだけでも優美な形で絵になるが、奏者を含めるとさらに魅力的なモチーフとなり、心が引かれる。
手の動きを一枚のデッサンから想像的に動かして大雑把に構成してみる。

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 このように、「みる-みられる」ことで成り立つ美術は脳の後半部、すなわち視知覚認識エリアやその記憶系エリアを相当の時間を掛けて一通り制覇してしまった。そしてフォーマリズムを中心としたモダニズムの行き着いた先は、脳の局在としての視覚野の、それも要素的に成立する低次機能ではなかったか。バーネット・ニューマンを見るがいい。2千年以上も前にユークリッドが発見した直線を飽きもせず、視覚V野で彩りながらひたすら描き続けている。
 これは脳が脳自身のためにしている自慰的行為を象徴している以外の一体何だろう。この表現欲求の表出活動はニューマン自身の特殊な問題か?‥或いは現代を生きる人間に対する一般論としてのテーゼ(命題)か?
 しかし、ことはそれで終わりではなかった。この視点からの美術論の第3の主題へ移りたい。
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<170-F200号制作過程;題名「フェローチェ」>
F200号制作過程。一応‥完成
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 フォーマリズム、つまり色と形を中心に成り立つ絵画のモダニズムは、脳の奥へ向かう旅であった。つまり視覚野の奥の奥へと。当然袋小路へ突き当たり終焉する宿命を併せ持っていた。
 いわゆる抽象の系譜を述べていこう。美術史的文脈では、カンディンスキーやモンドリアンはまだまだ具体性が強い。つまり第1信号系の外的事象のイメージの投影が感じられるが、抽象表現主義ではさらに外界イメージから遠ざかり純化していく。それを美術評論家や美術史家は「進歩」と云った。しかしこの美術論からすると、それは進歩でも前進でもなくなる。人類が誕生した数十万年前から脳に存在していたものを発見していく旅ということだ。より人間的な「等身大の思想」を標榜する神経心理学的なこの美術論から云うと、むしろ後退するかのように遠のく。つまり、五感の連携や意味の連合野を脳の高次機能だとする本論からすると、むしろ低次へ触手を伸ばしているように思われるからだ。脳(新皮質)の局在の奥への旅は「単純さ」の発見の旅でもある。
 続けよう。タブローすなわち触覚性の強いデ・クーニングやポロックを超えてモーリス・ルイス、ケネス・ノーランドなどの出現により、絵画の純粋還元は不能となり、終わりを告げる、とクレメント・グリーンバーグ(米、美術評論家)は云うのであるが、この美術論では、それは触覚を初めとする他の感覚器官を排除し、またそれらの連合野も排除し、側頭葉記憶系をも排除し、ただ単に視覚野の、それも局所的な視覚野V4等における色彩産出エリア(仮説)での事象のみを表現しているに過ぎない、というように解釈する。グリーンバーグが、アンソニー・カロやドナルド・ジャッドを評して「われわれは今や事物のイリュージョンの代わりに、様式的であることから生じるイリュージョンを受け入れる。いわば、蜃気楼のように形も重みもなく、ただ視覚的に存在するのだ」(芸術学ハンドブック、神林恒道他、p94)と云う時、彼はまるで視覚野V4の色彩エリア(仮説)や、線の座であるMT野や、形の座であるAIT野内でのそれぞれの現象を知っているかのようだ。そして「‥‥還元不能だ」と云う。当たり前のことである。同時的総合のどん詰まりの袋小路に行き着いたのであるから。
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<169-F200号制作過程;題名「フェローチェ」>
F200号制作過程。最後の仕上げへ描き込みと微調整
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 前回のエッセーで、人は“文法”(仕方、方法)を作りたがる、と述べた。が、しかしピカソもブラックも、根は自由な芸術家である。その後、彼らは自ら作り上げたキュビズムという堅苦しい文法を乗り越え、破壊し、ぞれぞれの自由な感性表現を取り戻していく。
 しかしながら、このキュビズム的視覚文法は、第1信号系の内的世界、すなわち知覚そのものへ突入する契機となり、美術史でいうモダニズムの本流を築き上げていく。そしてそこから生まれてくる抽象画とは、この論の流れからすると、脳の世界の“具象絵画”に置き換えられよう。カンディンスキーやモンドリアンは抽象画家ではなく、具象画家であるのだ。これらの表現が脳の視知覚野で実際に起こっている事象、それも視知覚野の中のさらに微視的で局所的で要素的な事象であることは、過去にクドクドと文献研究を通して調べ上げた(広大な砂浜のなかの一粒の砂のようなものかもしれないが)。2016年3月15日の絵とエッセー16「見えるから見るへ~視知覚ルートを探求する」から11回に渡って記載した。
 また2017年6月5日の絵とエッセー120の「末梢も中枢も一蓮托生」で養老孟司氏の仮説を紹介した‥「同心円の単位、領域からなる網膜での事象が後頭葉の視覚野で一対一対応をみせるということから、ユークリッド(Euclid、ギリシャ)は二千年以上も前に自分の頭を「観察」することによって脳の中に存在する“直線”を発見した。そしてそれを“言語”で表現した」、と。その数学的有り様の言語的表現は、カンディンスキーやモンドリアンでは絵画的表現として表れる。そして現代、神経科学では無侵襲性機器等の脳内探索を通してみごとに実証してくれている。
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<168-F200号制作過程;題名「フェローチェ」>
F200号制作過程。エアコンプレッサーやドリッピング、スパッタリングの作業が続くので、外での作業準備。家の中でコンプレッサー使用した大失敗を教訓に‥
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 このセザンヌの世界をもう少し進めてみよう。「自然を円筒形と球形と円錐形によって扱いなさい」と、外界世界との格闘の末、その本質をこのようにとらえたセザンヌの言葉をピカソらは絵の中に読み込み、その解釈の実践を試み始めるのである。脳の機能局在としての視覚野への還元論の始まりである。
 外界世界を「見る」という行為を通して、否、生涯を掛けた「見つめる」という行為を通してその本質を解釈し、2次元世界へ投射していたセザンヌの成果を、今度はピカソらは次第にその脳内世界を外的世界(キャンバス)へ投射し始める。最も単純な幾何学的形態を自然をとらえる契機と見なし、自然事物からそれを抽出し、あるいは解体していく脳内機能を外の世界、つまり絵画世界へ求め再構築したのである。
 ピカソらのこの行為は、この美術論からすると、人はまたしても新たな視覚文法(=様式)を確立したと解釈する。
 原始の時代、アルタミラやラスコーの洞窟に残された壁画のあの様式無き表現力の生命感溢れる具象的イメージは、永い時を経てルネサンス期に透視図法として確立され、その後はその発明した透視図法という“文法”を通して外界世界を眺め、表現していく時代が始まって行った、と同じように。
 「セザンヌの外界世界をとらえる懐疑や不安と追求」から「キュビズムの分析的手法の確立」へ、つまり自由で躍動的な表現形態から、文法的な約束事を確立する整理へと働くこのパターンは人の脳の持つ性癖なのだろうか!? 個人的に云わせて貰えば、様式無き混沌を混沌のままにしておくことはできないのか!と強く思うのである。その時に人は最も生き生きとした表現が可能となるのではないか。荒野を荒野のままにしてそこを自由に旅する行為と荒野に安心して旅の出来る道路を建設する行為‥芸術の世界だけは前者でありたい。
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