FC2ブログ

アトリエわじま絵画塾

 ☆函館市桔梗教室(函館市桔梗町,函館蔦谷書店から徒歩2分) ☆大沼高原教室(森町大沼高原(函館蔦谷書店から車で約25分,高速道路・大沼インターチェンジより2分、新幹線駅から車で12分)

「デュオ・カプリッチョ」2018作F200号部分
「デュオ・カプリッチョ」2018作F200号部分
(今回の魑魅魍魎はウイルスだったのか!?以下のエッセーは今からちょうど2年前の3月に、175編のエッセーに一括りつけようと書いてあったのだが、その約1年後、コロナ禍の第1波で、緊急事態が発せられた。)
<前掲№175の続 2019・3月その②>
しかし、人類はそれまで生き延びていられるだろうか。身体という「魑魅魍魎が宿る森羅万象」が密かに背後から復讐をうかがっているようでならない。‥それを言い出すまでもなく、おおよそ人の都合の良いように、文化や学問は置き換えられる。
例えば、「生態学(エコロジー=ecology)」という学問があった(現在ももちろんあるが)。それは20世紀後半、いつの間にか、環境問題に特化し、「環境保護運動」となり、「環境教育」なる言葉を生み出した。人は外へ外へと問題の場を探そうとし、原因や真実を求めようと行動しがちだ。しかし、これらの言葉はそっくりそのまま「人間問題」となり、そして「人間保護運動」となり、「人間教育」に置き換えられる。この中の「人間保護運動」とは、無論人間を保護する運動であり、取りも直さず人間の身体を保護する運動である。その時、身体とは“身体という自然・環境”のことであり、究極的には身体の上に築かれている脳の保護のことである。すなわち心や精神の保護のことなのだ。身体が外界環境に繋がっていることを忘却したかのように‥。
魑魅魍魎で身体が浸蝕された時、その病みはやがて脳の病みへと繋がっていく。すり替えてはならない。すべては人間の脳の中に還元される。‥所詮は脳の中の事象である。  
 さて一応これまでの176編のエッセーを簡単に総括したい、超簡単に。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 そう、「所詮は脳の中の事象である。」
この1,2秒の速さにして、12,3字の言語で言い切れる事象は、云うまでもなく無限大の宇宙空間と同様の未知の内容を含みながら、両手で抱えられる程の大きさで身体の上に実在する。ここで復習になるが、脳全体には1000億ものニューロンがあり、大脳皮質だけでは140億のニューロンがある。ひとつひとつのニューロンは複雑に枝を伸ばし、他のニューロンと情報交換をし、その接点はシナプスと呼ばれる。一つのニューロンには1万ものシナプスがある。つまり少なくとも140億×1万個のシナプスがあるということだ。G.M.エーデルマンによると、この数は1秒に一つずつ数えると3,200万年かかる計算になるという。さらにその中を流れる情報回路の組み合わせは10の後に1,000万個の0がつながる数字になる。“心”の総体‥否、一部かもしれないが‥その超壮大にして天文学的な数字で出来上がっているらしい。もはや卑小な筆者の能力では理解し語るすべが無い。無論最初からそれを十分知りつつもドンキ・ホーテの愚行・無謀な試みをしてしまった、しかし手ごたえある蓋然性を感じていることも正直なところだ。(2019・3月末)
スポンサーサイト



CM: 0
TB: 0
<178-F200号制作過程;題名「ブレスト」> 一応筆を置く‥‥
<178-F200号制作過程;題名「ブレスト」>
一応筆を置く‥‥

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 前回の続きのブログが2編あったが、ここ2年間ほど更新せずにいた。前回の「等身大」あるいは「身体性」という概念が引っかかっていた‥が、とりあえずアップ。
<以下、2年前・2019年2月記載分その①>
 時代は、いわゆるAIを取り込みながら、科学的・理性的方向へますます突き進んでいく。「身体性」という概念が叫ばれながらも、ますます白々しくも感じられる。第2信号系が第1信号系を駆逐し、従えようという話だ。
 言い換えれば、人間の持つエモーション(情感・感情・情動等々)を置き去りにしながら、文化は発展し続けているようでもある。少々感情的になるが、私の領域だった図画工作や美術の授業削減がここ3,40年平気で行われてきた。美術教育は感情教育の一翼を担うものだとの自負があったのだが。
 人類は第2信号系で第1信号系を駆逐し、凌駕しようとする。つまり、この地球上を第2信号系で覆い尽くそうということである。人の無意識の欲望はおそらくそうかもしれない。なぜなら人は今日よりは明日、明日よりも明後日と、アメニティ(快適さ)を追求する動物だからだ。
 そこでは、魑魅魍魎の跋扈する大自然は清潔な風景に置き換えられ、風光明媚な名所旧跡となり、ゴルフ場のように人工的な風景に作り替えられる。必要に応じて地球規模の人工空気製造機や人工降雨機、人工オゾン層が作動し、身の安全は守られる。マルチメディア・ネットワークで世界が覆われ、バーチャルですべてが経験可能になる世界。そこでは脳の世界は現実味を増し、細胞ネットワークやインパルスがリアリティを帯び、身体は座り心地のいい安楽椅子にただ座っていればいい状態となる。まるで神棚に祭られるように。身体は生きるためにあるのではなく、脳のために活かされ続ける。そのようにして人間は数多くある欲望の中で最大の欲望「永遠に生きる」という欲望を手にする(いみじくも、2021年当初のニュースで、トヨタ自動車は富士山麓に未来都市を建設する予定だ。人類の目指す居住空間はこの概念を全世界に敷衍することだろう(2021正月覚え書き
CM: 0
TB: 0
178.jpg
<177-F200号制作過程;題名「ブレスト」>
最後の描き込み‥0.2㎜のペンで仕上げへ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 さて、ひととおり美術史的文脈に沿って、この美術論の4つの主題を駆け足で通り抜けてきた。それらは①視覚的外的環境世界、②視覚的内的世界、そして③他の部位と視覚野の連合した世界、さらに④記憶系を中心とした脳内事象と意味野の一蓮托生の世界、であった。この神経心理学的な美術論から見ると、今となってはこれら4つの主題の有り様はメディアの発達も手伝ってほとんど一瞬にして見ることが出来る。“東京現象”(都市化現象)が十分に物語っている、‥もちろん札幌や大阪や福岡でもかまわないが。
 脳のアナロジーとして都市ができ、そこを歩き回ることは脳内を探索することに等しい(養老孟司)。そして脳の様々なエリアでの現象は一対一対応関係でどうやらそこで繰り広げられている様々な展覧会現象に収まったかのように見える。ドローンやヘリコプターで東京の上空高くから見下ろすがいい。そこにはそれぞれの文脈から完全に切り離された、エジプト美術展あり、印象派展あり、江戸の文化展あり、アボリジニ美術展あり、様々な様式が同時展開で繰り広げられている。さらにこの美術論の第4の主題である“コンセプチュアル・アート”という、美術文化の底を抜かしてしまった概念が跋扈(ばっこ)している。人間の血肉同然の言語とイメージは無限に増殖していく性質があるからだ。まさに現代の美術は底なしである、というよりも底なしにしてしまった。
 美術は今後どのような方向に進んでいくのだろうか。否、この云い方は適切ではない。可能性は、もしあるとしたらそれは脳のどこかに数万年も前から存在していることだからだ。「等身大」を自負するこの美術論は、より“人間的な美術”「等身大の美術」を問題とすべきであろう。
 美術史の流れの中には、第1ブロック系の関与を若干垣間見ることもあったが、ほとんど第2ブロックと第3ブロックの関わりとしての美術であった。それは美術の世界を超えて、もっと広い人間の世界そのものを増長させているイメージの世界と云っていい。前回同様繰り返すが、そのイメージが実在を超える存在と信じ込まれ、プラトンのイデアの「影」の、さらにその「影」を追い求めているようにも見える。
 等身大というからには、大脳そのものの可塑的な機能と構造の優秀性もさることながら、第1ブロックを取り込んだ、すなわち身体性を取り込んだものでもなければならない。しかし、今後それは可能だろうか。
CM: 0
TB: 0
177.jpg
<176-F200号制作過程;題名「ブレスト」>
最終は黒色が背景になるが、そのファンデーションとして様々な色を塗り重ねる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 現代はポストモダンの意識も遠くに去り、当然ながらモダニズムの概念そのものが忘れ去られ、僕たちはもはや底の抜けてしまった文化社会に暮らしているのではないか、足下には暗闇しか見えない。眼下の実在はまったく見えず、その存在すら忘れ去られているような‥。或いは、分厚いどす黒く鉛色をした雲を実在と信じ、その上を歩いているような感覚。それはまさに遠いプラトンの、イデアの影を実在と信じている関係(洞窟の比喩)そのもの。
 そのカラクリの一端はイメージを作り上げる言語。血肉同然の言語とはなんと厄介なものなんだろう。2016年、2月20日のエッセーでも述べたが、再度掲載、「‥私たちは一つの言葉の中に必ずしも同じものを見ていない。二人の人がいれば、一つの言葉は二つの現実である。『青いシャツの青年』という言葉を各自が思い描くイメージは数限りない。どんな青で形はどうで、と細密に説明しても同じことで、ますます共通理解を難しくする…。各自が独自に持ち、重なる言葉のイメージで人間同士はかろうじて関係を維持しているに過ぎない」(西尾幹二著「複眼の考察」より)
 言語は意味形成(コミュニケーション)のために大雑把なメタファを表現しているに過ぎない、イメージを喚起するシンボルに過ぎないのだ、という自覚ももはや消え失せてしまっている。言語で説明されたもの、とは謂わば実在のイミテーションであり、コンセプチュアル・アートはその強度を増せば増すほど、イミテーションとしての実在を語ることなのだが、その実感がない。
CM: 0
TB: 0
176.jpg
<175-F200号制作過程;題名「ブレスト」>
背景の下塗りをし始める
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 コンセプチュアル・アートの出現は脳内を引っかき回すことになる。それがこの美術論の第4の主題であり、ウエルニッケ野(感覚性言語中枢)とブローカ野(運動性言語中枢)を媒介とする美術だ。
 ミニマリズムの禁欲主義を打ち破るがごとく、コンセプチュアルは自由奔放に脳内を駆け巡り、外界世界は勿論、側頭葉や後頭葉、頭頂葉に存在する記憶痕跡や文脈を掘り起こし、さらには辺縁系までも動員して活動する。それらをとりまとめ、表出させたのが意味野、つまり言語中枢というシンボル化機能であった。すなわち他者とのコミュニケーションを持とうとした時、記憶系や情緒系はそれらをとりまとめる範疇化機能を持つ言語中枢に集められ表出される。ウィトゲンシュタインやソシュールが論考を深めた言語の性格や特徴、いわゆるセミオティックス(Semiotics=記号論)が活性化して、あるイメージを作り上げ、それがまかり通ることになる。
 ポストモダニズムにおけるコンセプチュアル・アートの爆発的発展は、実はこの他者との共通理解を持てる記号、シンボルが、人間の感性と表現された作品の間に、より一層深く介入して来たからに他ならない。さらにシンボル自体が独自の組み合わせでさらに増殖する概念を作り出し、一人歩きしていく。つまり、パブロフの云う第2信号系の限りない増殖が始まっていく(第1、第2信号系については、2016・12月16日のエッセーに記載)。
 アメリカに美術の中心が移り、やがてポピュラーカルチャーに発したポップアートから始まり、アプロプリエーション(流用・借用による表現)、ネオアカデミックアート、ネオエクスプレッショニズム‥‥‥、等々、様々なネオ(新しい‥の意味)が登場し、せきを切ったように様々な文脈が躍り出たのである。このように、美術のポストモダニズムは、モダニズム時代の「‥イズム」に倣って多くの「小さな物語」を作り出した。日本では、当初は高度経済成長時代、楽観的に容認・発展してきたそれらはやがて東西体制の崩壊やバブルの崩壊、さらにはリーマンショック等々を契機に悲観主義に転じ、世紀末的閉塞感を引きずりながら現代に至っているのではないか。
 ボードリヤールの「シミュレーショニズム」とは、パブロフの第2信号系の世界そのものであり、まさに脳化社会の曙を告げたものであった。人間の意識・無意識双方の最たる欲望は、実在を人工が凌駕することではないだろうか。しかし、その後今日に至る文脈は、まだまだ「記号(第2信号系)は実在(第1信号系)を駆逐」していない。ただ、ポスモのなれの果ての現代、言語は幾十にも層を成し、実在が見えにくくなったことは明らかだ。デラシネのように実在から離れ、或いは喪失し、重さ(責任)が無くなり、風船のように彷徨い始めた。
CM: 0
TB: 0

▲Page top