アトリエわじま絵画教室

連絡先:0138-46-0955  <教室所在地> ☆函館市桔梗教室(函館市桔梗町,函館蔦谷書店から徒歩2分の距離) ☆大沼高原絵画教室(森町大沼高原(赤井川,函館蔦谷書店から車で約25分,森町から高速道路・大沼インターチェンジより1分、新幹線[新函館北斗駅]から車で12分の距離)

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<130-水彩その2の⑧:初夏、函館市元町の坂にて>
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 養老は言語の基本は聴覚-音声系にあると云う。それは、聴覚と発語(運動)は時間的な関係にあるからだとして次のように説明する、「発語器官の喉頭と耳の伝音系の中耳は脊椎動物が水生であった時の鰓から生じたものである。我々は謂わば、鰓を使用して音を出し、音を聞く。喉頭→音声→耳→脳→喉頭というフィードバックの機能のループが日常的に言語活動の基本で有り、聴覚-音声言語が言語の基本だとすることに繋がる」。聴覚-音声言語系が、左半球の事象(言語プログラミング)であるなら、聴覚-音楽系は右半球事象(空間・運動プログラミング)である。すなわち音楽を聴き、唄うことも時間に関係がある。その聴覚-運動系にリズムがあるが、これは実は視覚系に最も欠けているものである。リズムすなわち時間における規則的な繰り返しであって、ヒトの意識はまさにそれを「連合」した。
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<129-水彩その2の⑦:初夏、函館市元町の坂にて>
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 視聴覚の1次中枢から入った刺激は、感覚性言語中枢である聴覚性言語中枢(ウエルニッケ)、視覚性言語中枢(角回)を通って運動性言語中枢(ブローカ)に入り、発語となる。これらの器官が壊れると様々な障害が出る。神経心理学では相当量の損傷例が報告されている。例えば、ブローカの障害では、言葉は理解出来るが、発語が不能となり、ウエルニッケの障害は音声言語が理解出来なくなる。角回の障害では(日本人は)カナが読めなくなる。(西洋人は)アルファベット全部が読めなくなる等々、音声言語、視覚言語の違いで複雑な障害が起きる。養老は云う「我々は言語体系を視覚にも聴覚にも強制している。それには両者を支える共通の基盤が存在しなくてはならない。それが言語成立の基本である」と。まさに坂野登氏の云う「機能的構造化」と同様の認識であろう。
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<128-水彩その2の⑥:初夏、函館市元町の坂にて>
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 視覚と聴覚という刺激の種類も時間に関する性質も全く違う異なる2つの感覚の連合の成立が言語成立とほとんど同義である。目や耳の障害があってもある程度の言語が生じるのは、そうした構造=機能形式が脳にすでに用意されている(無論その機能には周囲の環境は絶対条件になるのはいうまでもない)ためである。
 視聴覚の連合はいかにして生じるか? それには大脳皮質の地図と構造は示唆的である(養老は、聴覚一次中枢(ウエルニッケエリア)と視覚一次中枢(最後頭部エリア)から、大脳皮質を波状に情報処理が拡がると考えた場合の模式図を示しながら、「言語中枢は両者からの波動がぶつかるところに位置する」ところに着目)。以前のエッセーですでに詳しく述べ、ここでは概観するが、皮質の一次中枢は入力(視覚、聴覚、触覚など)の始まりであり、それは2次、3次と伝わっていく。ブロードマンは皮質を領域に分け、部位によって若干異なるが、細かく柱状の素子構造であり、さらに細かく云えば神経細胞とそれに付着するシナプスの集団となる。視覚と聴覚の伝導体系は、その構造や機能において類似しているため、ある程度交換可能なのではないか。実は以前視知覚ルートを探っていた時に以下のように記載した‥‥視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚など、五感センサーから入る外界の情報は、すべて同種の電気信号に統一されて脳内へ入るのである。であるならば、五感は別々に入力され、認識されているとはいえ、脳内のどこかで溶け合う、或いは混じり合うと云うことがあっても不思議ではない。深奥部にその場所は発見できるかもしれない。そこは、いわゆる「逆さメガネの実験」などで証明されている、聴覚触覚などは最終的に視覚を中心に統合されるという「視覚優位説」発祥の座だ(2016年3月24日のエッセーに記載)と。
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<127-水彩その2の⑤:初夏、函館市元町の坂にて>
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 さて、意識の発生に続き、言語の発生である。云うまでもなく言語は、喉頭の構造等身体性の問題ではなく、大脳皮質の関与で生まれる。言語には大きく分けて聴覚言語と視覚言語がある。言語はもともと聴覚言語であると云われるが、養老は「視覚言語である文字などは技術的問題であり、出現時期の違いはヒトの能力の差ではない。状況の変化で視覚言語はできた。生物学的な能力からは、視覚言語と聴覚言語は同時であったと考えられ、問題は視覚性と聴覚性を無理に繋いだことである」と云う。すなわち視覚は時間を疎外し客観化し、聴覚は時間を前提にし、内在化する。この関係は構造と機能との関係によく似ている。「構造と機能という観念がヒトの脳に生じるのは、脳の視覚的要素と聴覚的要素の分離ではないか」と推論する。本来、外界の事物は、ただ何気なくそこに存在しているだけだが、われわれの脳はそれを聴覚系に依存して、時を含めて把握するか、または視覚系に依存して、時を外して把握する。確かにこの2つが脳の中で「連合」するのは簡単ではない。養老は、それを脳は無理に繋いだ、とみる。そして、「例えば、物理学では光は粒子でもあり、波動でもある。視覚系の脳では粒子であり、聴覚系では波動になる。われわれの脳が2項対立を生じるのである。『飛んでいる矢は止まっている』(ゼノンの矢、ゼノン=Zenon of Cypros)の逆理はまさしく視覚系における考察を聴覚系に対して提示しているから難しいのである」と。なるほど心身論、構造と機能、粒子と波動‥等々と云う逆理の統一は本来無理がある。脳の構造ゆえの捉え方なのである。生物学的にも、視覚言語と聴覚言語はある程度並行して処理が可能だが、同時に一方がある目的に使用されている時は、それを重ねて使用することはできない。つまり、両者ははっきりとした独立した経路である。生物が生まれ、生きる自然の環境で、音と光は必然的に結び付かなかった。両者が異質だったから、光と音の受容器、目と耳とは独立して発生し、進化した。「構造主義と機能主義は、謂わば視覚主義と聴覚主義であり、異質なもの同士を一緒にするのは、脳の宿命なのだろう」と養老は云う。
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<126-水彩その2の④:初夏、函館市元町の坂にて>
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 養老はこれまで「中枢は末梢の奴隷」と強調しているように、神経細胞は末梢を十分支配していないと死ぬ。それは神経細胞は支配域に依存するためであり、知覚系、運動系どちらにも当てはまる。それ以前に神経が発生してくる際、相手(末梢)の無い、或いは相手に不足のある神経細胞は、間引かれてしまうという事実を云う。いわゆる『臨界期』(critical period)という概念もそれに含まれると思われるが。そして意識は、脳内の神経細胞が増加し、外部からの入力や直接の出力の「量」だけに依存するだけでなく、脳内の活動に、神経細胞の維持が依存するようになった時に発生したというわけである。だから、思考なり意識なり自我なりが、ほとんどの場合自慰的であると考えるのは論理的であるということだ。養老は続ける、「“物質(脳)から心が生ずるか”という議論は前に述べたが、これこそ脳が脳を論ずる型の議論である」。生物学的にはこれは「構造と機能」の関係の問題で、構造は物質であり、機能は物質でないということ。構造と機能は同じものの異なった「見方」すなわち、一事象の異なる表現である。
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