アトリエわじま絵画教室

連絡先:0138-46-0955  <教室所在地> ☆函館市桔梗教室(函館市桔梗町,函館蔦谷書店から徒歩2分の距離) ☆大沼高原絵画教室(森町大沼高原(赤井川,函館蔦谷書店から車で約25分,森町から高速道路・大沼インターチェンジより1分、新幹線[新函館北斗駅]から車で12分の距離)

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<147-「さわやかな風」アクリル他ミクストメディア②>
窓辺の静物を描く‥‥・・・・・・・・・・・・・
 さらに私見を鋏めば、現代ほど第1信号系が抑圧されている時代は無いだろう。確かにエコロジー運動はあるが、“ブーム”であり、情緒に過ぎない。それは、人間は飽くことなくまた懲りることなく第2信号系に第1信号系を従えようとする意図が深層にある。“大脳の合目的的性”である。飢餓状態の人を前にして、自分の腕を切り取ってまで、肉を分け与える人はいるまい。同様、人類は文化を削るわけには、もはやいかない。AIの発展が叫ばれている今日である。ヒトは第1信号系を“排除”しようとしている、出来るはずもないのに。
 養老孟司は、最後に日本民族・文化にも触れている。「身体性の強い戦乱の世から、新社会である江戸を造ることによって、脳から身体性を抜いた。その伝統は今に至っている。それは統御可能な脳の機能のみで集約する社会である。それは身体性を軽く見る社会でもあるため、我が国では身体性の思想がない。それに比べて人工的なことに関しては世界有数であり、日本はまさに唯脳論の国である。それは我が国には個人主義がないことに通じる。それは身体性が欠けているからだ。本来社会は脳の上に成立し、個人は身体の上に成立する。個人が身体性によって成立する以上、日本は国のために身体を無にする特攻隊はあるが、個人主義がないのは当たり前である」と。
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<146-「さわやかな風」アクリル他ミクストメディア①>
窓辺の静物を描く
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 パブロフの唱えた第1信号系と第2信号系は、これまでの文脈で捉えるならば、身体性と脳(大脳=機能的構造)としても差し支えないのではないか。ここでは、現代は、現代人の生活はほとんど第2信号系の中に埋没してしまっているとしてよい。その象徴として都市が存在している。その中で機能しているハード的なものはもちろんソフト面もすべて人間が作りだしたものであり、都市間を繋ぐネットワーク、つまり社会は脳の創造物であり、人間を取り巻く環境は第2信号系そのものになってしまった。すなわち言語、教育、文化、伝統、進歩等に取り囲まれ、徹底的に支配管理されているのである。
 養老は「唯脳論」を、岸田秀氏の「唯幻論」と同一する。すなわち、ヒトは大脳を持ったが故に本能が壊れ、本能に替わるものとして幻想を必要とするのであり、それは各個人の中に存在する。さらに社会はその共通部分を「共同幻想」として造られていくのである。岸田秀氏は第2信号系を“幻想”とまで見なしているのである。謂わば、“幻想産出機”として脳-大脳新皮質を捉えているのである。
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<144-水彩「旧亀井勝一郎邸の横より函館山を遠望」アクリル他ミクストメディア 完成>
空気感を描いてひとまず完成
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 まとめてみよう。機能主義は聴覚・運動系-聴覚主義で運動系の関与する哲学、実践哲学や倫理学である。その特徴は、体性知覚にも繋がる関連性の広さであり、長さである。これらに対し、構造主義は知覚系-視覚主義で認識論であり、行動における瞬間の思想である。実存主義に近い。その特徴は明快さであり、端的さでもあると云える。養老は云う、「構造主義者はほとんど意志(運動系)について語らない。もし出来るとすれば、それは脳の最後から前頭に移動しなくてはならない。視覚には永遠か瞬間しか存在しないから、ポスト構造主義というのは語義矛盾である。反構造主義と云うべきだ。さらに機能主義(聴覚・運動系)と、構造主義(視覚系)や実存主義が相反するように見えるのは、行動の有無に過ぎない」と。
 ヒトの思想は様々だが、所詮脳は脳であって、ひとつのものである。機能としてはともかく、構造は変わりようがなく統一されている。唯脳論は基本的に解剖学である。
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<143-水彩「旧亀井勝一郎邸の横より函館山を遠望」アクリル他ミクストメディア⑤>
先ずは明快に澄み切った世界を描く
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 運動系の思想は目的論だけでなく、因果論にもあてはまる。養老は「力学は自然科学であり、普通客観的であるとされるが、客観的であろうがなかろうが、物体の運動に説明がつく以上はそれに対応する『なにか』が脳になければならない」とする。つまり、力学において「客観的真理」は外界にあるのではなく、脳の中の運動系の関与に因るというのである。確かに外界に客観的真理があるという「等身大以上の思想」は、自然科学の発達を助けたに違いないが、量子力学に至ると、客観的真理が成立しないことは自明である。そこでは、ものごとは「量子的」すなわち微分不能となり、最後には不確定原理として観測者本人が、つまり脳が顔を出すというものだ。
 「どんな高い玉座に昇るにしても、座っているのは自分の尻の上」
                         (モンティーニュ=仏、思想家)
 このように養老は脳内事象を学問的、哲学的世界へと還元させていくのである。
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<142-水彩「旧亀井勝一郎邸の横より函館山を遠望」アクリル他ミクストメディア④>
混沌から輪郭を見いだしていく。
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 人間の知覚系も運動系も正確ではない。最初に述べたとおり間違いを犯す。「‥しかし、その方法はそれぞれ違う。知覚系の原理は自然(世界)に存在するものの濾過であり、運動系は試行錯誤の原理である。自然選択説とは運動系、つまり試行錯誤の機構の投射である」。養老は続ける、「運動系の原理を応用したのが、最初の自然選択説である。つまり、生物の形の多様性等は、生きるための運動(=行動=生存競争)が基本にあり、環境によって選択されるのである。競争とは生存競争であり、まさに運動である」。
 脳は運動系について知った時、目的論は成立したと述べた。そして運動そのものについて考えた時、「力学」が成立した。力学は目的論はなく、因果論(原因・結果)の形を取る。
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