アトリエわじま絵画教室

連絡先:0138-46-0955  <教室所在地> ☆函館市桔梗教室(函館市桔梗町,函館蔦谷書店から徒歩2分の距離) ☆大沼高原絵画教室(森町大沼高原(赤井川,函館蔦谷書店から車で約25分,森町から高速道路・大沼インターチェンジより1分、新幹線[新函館北斗駅]から車で12分の距離)

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<141-水彩「旧亀井勝一郎邸の横より函館山を遠望」アクリル他ミクストメディア③>
これから描写開始
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 脳は知覚系により認識論として世界を理解しようしたが、さらに運動系を伴って世界像の形成に動員しようとするのだ。ここに哲学における目的論の系譜が生じる。世界を「どこまで目的論的に解釈してよいか」という哲学的問題を、養老は、「どこまでを知覚系ではなく、運動系で解釈してよいか」という生物学的課題に読み替える。例えば、ショーペンハウエル(独、哲学者)の『意志と表層としての世界』とは、前頭前野(運動系→意志)から後頭葉視覚野(表層)まで、つまり脳全体を包含して世界像を構成したものではないか、と捉えるのである。「『意志』とは運動系に、『表層』とは視覚系について語ったものだろう。目的論が成立するのは世界ではなく、生物の行動においてである。唯脳論では哲学は動物学になる」と養老は云う。
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<140-水彩「旧亀井勝一郎邸の横より函館山を遠望」アクリル他ミクストメディア②>
前回同様、空にマスキングして地上に色を散らす。
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 大脳皮質における情報処理のヒエラルヒーの頂点に立つ前頭前野は、意図、意識のもと、
行動命令を下すエリアであり、それには必ず目的論を伴う。それはどのように発生したのだろうか。養老は語る、「初めは、運動(行動)とは知覚系による入力や出力の監視のみだった。それが運動系の脳内での機能そのものが意識に上がり出した。それが目的論の発生ではないか。脳は自分の運動系を知っている。そして運動系から目的論を取り出している。脳内に運動系がある以上、脳はそれを見過ごすことはできない」と。つまり、動物の行動は程度はあるが、合目的的であり、人の脳の変化はその延長線上にある。脳は行動を支配し、統御するように進化してきた。われわれの脳はそれを「目的論」とした。われわれの行動の後から目的論は生まれ、目的論思考は生じたのだ。
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<139-水彩「旧亀井勝一郎邸の横より函館山を遠望」アクリル他ミクストメディア①>
石畳の大三坂を登り、旧亀井勝一郎邸を超えると、カトリック教会、ヨハネ教会、ハリストス教会が現れる。さらに背景に函館山が迫ってくる。
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 知覚系から始まった「唯脳論」もいよいよ大詰めとなった。それは脳内過程を主に後ろから前へ移行しながら、世界を一対一対応で語る議論であった。なかで、知覚系のみによる哲学が、純粋な認識論であるとしている。では運動系はどのように解釈出来るか。最後に養老は運動系について語る。
 精神作用とは、すべて脳の働きが関与している。それは筋肉にも及ぶ。筋肉に入る神経繊維の内、五割は筋紡錘、腱紡錘と呼ばれる知覚繊維である(仮説)。こうした知覚繊維はネコの最細筋ように筋自体が知覚器として作用する筋がある。「筋の運動は『脳力』であり、脳の働きである思考である、と捉えてもよい」と養老は云う。多くの運動は無意識であり、知覚がそれを監視する。運動系は、原始的な反射だけで成立し、知覚入力が即運動出力に結合する、いわゆるバクテリア等の「走性」から、われわれの高次で複雑な行動までを司っているのである。このように脳内に運動系が存在することがわれわれ自身の思考にどのように影響するのだろうか。
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138-「教会通り」
<138-水彩「函館元町・教会通り」アクリル他ミクストメディア 完成>
遠くに見える津軽海峡は真っ白い雲に覆われている。
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 このように養老は、すべてを脳に戻そうとし、「内容」ではなく、「形式」を説き、「普遍」を追求するのである。すなわち唯脳論では、最後の普遍とはヒトの脳である。確かにわれわれは「脳において思考するという形式」から逃れられない。ヒトは意識「内容」の正否を巡って戦いを繰り返した。それは無意味であり、不幸である。生まれるべくして生まれた思想を否定しても意味が無い。大事なのは、それを「等身大以上」にしてはならないということだ。
 では、唯脳論的視点で、「等身大の思想」とはどのような枠内をいうのであろうか。例えば、生物学的事実に基づいた思想ということなのか。前述の坂野登氏の著書では、坂野氏はフロイトやユングを徹底的に批判した。それは“真理”を追求してのことだが、追求すればするほど逆説的に、「等身大以上の思想」を受け入れるのもまた、人間の持つ不思議な性質(可塑性=機能的構造化)であると、筆者はやるせなさを感じた。ダーウインもキリストもまたユングも“真実”ではなく“信実”(筆者のいうイリュージョン)を発見したのであろうか。
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<137-水彩「函館元町・教会通り」アクリル他ミクストメディア⑤>
おつゆのホワイトで、具象イメージを探る
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 養老孟司はさらにもうひとつ例を述べている。我が国のダーウィン版進化論なるものに「今西進化論」(今西錦司による説)があるとして、その概要「生物は変わるべくして変わる。種の固体は変わる時にはすべてが一緒に変わる。新しい種はなるべくしてなり、世界は種社会から成り、種社会は種固体から成る」をあげ、それは今西氏の“認識の進化”の「固体発生」であり、今西氏の生きた時代に影響されたためであるとする。つまり、その考え方にモデルがあるというものだ。有機物の自ずからなる発芽、成長、増殖等のイメージとその社会の言語が同時に歴史認識を規定するというもの。歴史認識とは、ある文化に置かれた脳(人間)の典型的な時間意識である。この教えるところは、唯脳論のひとつの主題でもある、視覚と聴覚-運動系の結合が「永遠と時間の交わり」であるということである。私たちの認識が伝統に影響されるのである。脳は知覚を通して外界を取り入れ、人工的外界、すなわち社会及び社会の言語を“強制されて”取り入れるということでもある、と。坂野登の「機能的構造化」である。
 「私は『等身大の思想』以外は信じない。『等身大以上の思想』、例えばダーウィニズム、キリスト教等は自分の脳を考えに入れることを拒否する。ソクラテスもデカルトもその点を指摘した‥。しかし、それでも頑張るのがヒトの文化である」と養老は云う。
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