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アトリエわじま絵画塾

 ☆函館市桔梗教室(函館市桔梗町,函館蔦谷書店から徒歩2分) ☆大沼高原教室(森町大沼高原(函館蔦谷書店から車で約25分,高速道路・大沼インターチェンジより2分、新幹線駅から車で12分)

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<175-F200号制作過程;題名「ブレスト」>
背景の下塗りをし始める
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 コンセプチュアル・アートの出現は脳内を引っかき回すことになる。それがこの美術論の第4の主題であり、ウエルニッケ野(感覚性言語中枢)とブローカ野(運動性言語中枢)を媒介とする美術だ。
 ミニマリズムの禁欲主義を打ち破るがごとく、コンセプチュアルは自由奔放に脳内を駆け巡り、外界世界は勿論、側頭葉や後頭葉、頭頂葉に存在する記憶痕跡や文脈を掘り起こし、さらには辺縁系までも動員して活動する。それらをとりまとめ、表出させたのが意味野、つまり言語中枢というシンボル化機能であった。すなわち他者とのコミュニケーションを持とうとした時、記憶系や情緒系はそれらをとりまとめる範疇化機能を持つ言語中枢に集められ表出される。ウィトゲンシュタインやソシュールが論考を深めた言語の性格や特徴、いわゆるセミオティックス(Semiotics=記号論)が活性化して、あるイメージを作り上げ、それがまかり通ることになる。
 ポストモダニズムにおけるコンセプチュアル・アートの爆発的発展は、実はこの他者との共通理解を持てる記号、シンボルが、人間の感性と表現された作品の間に、より一層深く介入して来たからに他ならない。さらにシンボル自体が独自の組み合わせでさらに増殖する概念を作り出し、一人歩きしていく。つまり、パブロフの云う第2信号系の限りない増殖が始まっていく(第1、第2信号系については、2016・12月16日のエッセーに記載)。
 アメリカに美術の中心が移り、やがてポピュラーカルチャーに発したポップアートから始まり、アプロプリエーション(流用・借用による表現)、ネオアカデミックアート、ネオエクスプレッショニズム‥‥‥、等々、様々なネオ(新しい‥の意味)が登場し、せきを切ったように様々な文脈が躍り出たのである。このように、美術のポストモダニズムは、モダニズム時代の「‥イズム」に倣って多くの「小さな物語」を作り出した。日本では、当初は高度経済成長時代、楽観的に容認・発展してきたそれらはやがて東西体制の崩壊やバブルの崩壊、さらにはリーマンショック等々を契機に悲観主義に転じ、世紀末的閉塞感を引きずりながら現代に至っているのではないか。
 ボードリヤールの「シミュレーショニズム」とは、パブロフの第2信号系の世界そのものであり、まさに脳化社会の曙を告げたものであった。人間の意識・無意識双方の最たる欲望は、実在を人工が凌駕することではないだろうか。しかし、その後今日に至る文脈は、まだまだ「記号(第2信号系)は実在(第1信号系)を駆逐」していない。ただ、ポスモのなれの果ての現代、言語は幾十にも層を成し、実在が見えにくくなったことは明らかだ。デラシネのように実在から離れ、或いは喪失し、重さ(責任)が無くなり、風船のように彷徨い始めた。
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<174-F200号制作過程;題名「ブレスト」>
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 第4の主題を述べる前に、その主題が活性化するトポス(場所)を考えたい。そこはまさにポストモダンという時代だ。
 「ポストモダニズム」‥様々な分野で言い尽くされているかのように見える。すでに数十年も前に建築文化の領域から出て来た概念であるが、広く社会学的な視点からも捉えられる。今から50年以上も前、1960年代の、例えばダニエル・ベルの『社会学の終焉』等の指摘する社会システムの崩壊と変化、すなわち工業化社会から電子情報社会への革命的変化に端を発すること=パラダイムシフトの大変化=ポストモダニズムということだった。その頃を契機として資本主義の概念は変化し、“生産より消費”優先の時代精神(ツァイトガイスト;zeitgeist)が広まったのである。
 美術も例外ではない。社会とパラレルに存在し、「社会的存在」としての側面もある美術も様々にその変化が叫ばれてきた。それをリオタール(仏,哲学)は「大きな物語の終焉」とし、ハンスベルディングは、もはや美術の進歩は無い、とする「美術史の終焉」を語った。歴史の止まった(ように見える現代は)、ポストモダンとは、つまり時代というより、空間(トポス)と云った方が適切なように見える。
 第4の主題はまさにこの美術概念の大変化以後の話である。その特徴は、ジャン・ボードリヤール(仏、社会学)らの「シンボルは実在を駆逐し凌駕した」とし美術を含む社会文化面へのするどい洞察に端的に表れている。
 筆者が経験的に感じたことを云えば、日本においては、「大量生産・大量消費」あるいは「バブル」が一段落した頃の1980年前後から、公立、私立問わず、「美術館」が全国各地に出現し始めた。“物欲から精神の価値へ”と云うわけだ。まさに“雨後の竹の子”のように。それに伴い、学芸員なる職業人も多く現れる。それまでの美術文化を担う人々は、もちろん美術愛好家ではあるが、もとよりかなり乱暴にいうと、「画家、彫刻家等々、表現者とそれに寄り添う、或いは批判する美術評論家」という構図で成り立つ世界であった。 このポストモダンにあっては、学芸員の大量の出現から始まり、やがて、評論家から美術ジャーナリスト、キュレーターに代わる。美術文化を下支えする愛好家は、彼らを通して美術への親愛と知識を深めて行くことになる。或いはその影響を免れない。
 このような時代の流れの中で、制作活動を生業とする筆者は、そのような美術環境との齟齬を強く感じてきた。簡単にいうと、「言語で知る美術」と「手で知る美術」の違いかもしれない。もちろん、「手」とは体幹を含めた五感のことであるが。現代は、「言語で理解する美術」が蔓延し、定着している。そこから生まれてくる「美術」概念はモダニズム時代とは大きく異なってくることを前提に考えて行かなければならない。
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<173-F200号制作過程;題名「ブレスト」>
奏者の全体の形は、上から見下ろすようなマッチョな形態となった。これで進めることにした。
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 前述のミニマルやコンセプチュアル・アートの出現に先駆けて行われた画期的なことがあった。マルセル・デュシャンやジョン・ケージである。両者はあまりにも有名な“企て”を行い、様々な論者によって十二分に解釈され尽くした感があるが、ここではジョン・ケージについて簡単にその解釈を試みる。
 普通、コンサートへ行き楽曲が始まると、最初は奏者の姿や演奏する行為に注意は向けるものの、やがて眼を閉じて聴き入ることもある。楽曲の始まる直前のあのホールの緊張感みなぎる雰囲気も僕は好きである。しかし、その演奏する直前の静まりかえる雰囲気と奏者がそのまま時間が止まったようになった会場を想像してほしい。予想する時間になっても微動だにしない奏者。おそらくすべての鑑賞者は奏者に瞬きもせず釘付けになり凝視するに違いない。全身“視覚”のかたまりになり、後頭葉視覚野が最大に活性化する、聴覚の快楽を求めていたにも拘わらず‥。
 ジョン・ケージは音楽的手法で芸術へのアンチテーゼを行う。まったく音を出すことのない「4分33秒」と題したコンサート。これは本来聴覚-運動系であるはずの音楽を後頭葉視覚野へ無理やり押し込んだものであり、ミニマルやコンセプチュアル・アートの、脳内における逆の方向を辿ったものである、と解釈する。人々は云う、「why?」。ジョン・ケージは云う、「頭を使え!」と。つまり、「脳の機能局在を破壊するまでに脳の隅々まで使え!」と叫んでいるように僕には感じられる。繰り返す、脳は混沌より、規律を好む。知覚系は知覚系でかたまり、運動系は運動系でかたまりやすい。それが日常性であり、自明性である。それらは長い間にマンネリズムに陥る。脳のヒエラルヒーの頂点に立つ前頭葉、それも前頭前野がそれらの固定化を溶きほぐし、交流を可能にしてくれる、と。脳を十全に使用すること-それが十全に“生きる”ということに他ならないのだ、とジョン・ケージは教えてくれているように思うのだ。
 マルセル・デュシャン、ジョン・ケージ‥これらの“アート”は確かに一般性はない。根本的に無理があるからだ。無理を承知で一部の人々には容認されている。まさに脳の持つ可塑性である。しかし、“反芸術”はいつまで経っても反芸術でしかない。歴史の時々に浮かんでは消える運命を持つ。そしてその内容を巡って人は議論を繰り返している。マイケル・フリード対ジュゼフ・コス-スはすなわち、フォーマリズム対ミニマリズムあるいはコンセプチュアリズムであり(神林恒道他「芸術学ハンドブック」勁草社、p83)、それはすなわち後頭葉対側頭葉であり、視覚主義対聴覚運動主義であり、詰まるところ脳の前と後の戦いであると云えるだろう。かってに議論し、脳の中で連合させたらいい。それも可能である。しかし、時間軸と空間軸は永遠に重なることはない。
 続いて第4の主題である。
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<172-F200号制作過程;題名「ブレスト」>
人体と腕、手の位置関係・バランスはある程度、感に頼って大雑把に表現していく・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 第3の主題を述べる前に確認したい。フォーマリズムは、抽象美術の純粋性を徹底的に突き詰めた結果、還元主義に陥り、脳の局在としての視覚野の色や形の源泉、V1野やMT野やMIT野に辿り着いた(もちろんこれまで通り、蓋然性の高い仮説が浮遊する脳科学を前提としてであるが)。言い換えれば、あらゆる形をそぎ落とし、形の最小限度まで突き詰めようとした一連の行為はミニマリズム、すなわちミニマルアートを生んだが、それは表現の結果と同時にその行為を意識的に感じること、つまり空間概念と時間概念が入り交じったようなものではなかったか。ちょうどお座りが出来るようになった乳児が、白い紙面上にマジックを握った手を振りかざし、腕の動き(行為)と同時に黒い点(形)が生まれてくる(通称、テンテン画)ことを喜々として喜ぶことに似ている。もちろん乳児は無意識であるが‥。人間はそれを意識化し表現の起点に辿り着いたのである。
 さてこの美術論の第3の主題である。アメリカ現代美術のもう一人の擁護者、ハロルド・ローゼンバーグは、二次元平面画面ではなく、制作の行為、即ち運動系そのものを問題とする。プロセスアート、パフォーマンス、或いはヴィデオアートの出現は時間の推移を伴うものである。本来時間概念と空間概念は合うはずがないのだが、そこでは作品の持つ運動的側面が強調される。さらにコンセプチュアルアートの多様性‥。これらは視覚主義、形態主義の美術にとって無縁の概念である。この美術論の拠り所ともなる神経心理学的・唯脳論的文脈では、聴覚-運動系である時間性と視覚系の空間性はもともと相容れない関係であり、脳の中で無理やり連合したのであると解釈する。その視点からすると、視覚主義のアートに対してのコンセプチュアルアートという語自体が本来語義矛盾ではないのか。コンセプチュアル(概念上)とは、着想、意図、行為‥という意味である。それは系列的展開の前頭葉-運動系に関わるものであり、アート(視覚アート)とは云うまでもなく同時的総合の認識系に関わるものだからである。水と油を混ぜようというのだから、これは脳独自の働きでなくて何なのだ。脳から云わせると、これはひとつの“自明性への挑戦”である。固定化してしまった脳の機能局在への叱咤激励である。一瞬は混ざるだろう。しかし、また元に戻る。脳は混沌よりも規律を好む。芸術の歴史はそれを証明している。
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<171-F200号制作過程;題名「ブレスト」>
ヴァイオリンはそれだけでも優美な形で絵になるが、奏者を含めるとさらに魅力的なモチーフとなり、心が引かれる。
手の動きを一枚のデッサンから想像的に動かして大雑把に構成してみる。

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 このように、「みる-みられる」ことで成り立つ美術は脳の後半部、すなわち視知覚認識エリアやその記憶系エリアを相当の時間を掛けて一通り制覇してしまった。そしてフォーマリズムを中心としたモダニズムの行き着いた先は、脳の局在としての視覚野の、それも要素的に成立する低次機能ではなかったか。バーネット・ニューマンを見るがいい。2千年以上も前にユークリッドが発見した直線を飽きもせず、視覚V野で彩りながらひたすら描き続けている。
 これは脳が脳自身のためにしている自慰的行為を象徴している以外の一体何だろう。この表現欲求の表出活動はニューマン自身の特殊な問題か?‥或いは現代を生きる人間に対する一般論としてのテーゼ(命題)か?
 しかし、ことはそれで終わりではなかった。この視点からの美術論の第3の主題へ移りたい。
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